原監督が巨人に復帰して、巨人の一軍内野守備兼打撃コーチになった元木さん。
そんな元木さんですが上宮高校でアイドル顔負けの人気を博しておりましたね。
そんな上宮高校でエースの座にいたのが宮田正直さん。
宮田正直さんの現在の仕事は何をされているのでしょうか?
また練習中の不慮の事故で記憶障害になってしまったそうですが甲子園の決勝も忘れてしまったようです。
ただ、それ以外にも忘れてしまった大切なエピソードがあるとか。
宮田正直の現在の仕事は?
宮田正直さんは上宮高校を卒業後はドラフトにはかかりませんでしたが、自分で自分を球団に売り込みドラフト外で福岡ダイエーホークスを契約しました。
それが1990年のことで、ただ、1軍での出場機会はなく1995年には現役を引退しております。
で、宮田正直さんの現在の仕事は?というと、現役引退後の1996年から2008年までは打撃投手を務めておりました。
その後は、先乗りスコアラーとして現在も野球に関係する仕事を続けられております。
宮田正直さんの歴史を見ていると高校3年のときに甲子園行きを阻んだのが、あの中村紀洋選手。
で、宮田正直さんが現役を引退した際に着けていた背番号を翌年引き継いだのがあの斉藤和巳選手。
大阪・上宮高校で、 “史上最高の逸材”と呼ばれた「天才ピッチャー」と呼ばれていたそうですが、こう見るとどこかボタンの掛け違いか、何かプロで成功するのには足りなかったのかもしれませんね。
それがピッチャーとしては173㎝と小柄だったため、後10㎝身長が高かったら結果が変わっていたかもしれませんね。
ただ、宮田正直さんのエピソードはこれで終わりじゃないんです。
宮田正直さんは打撃投手になった後、1999年に福岡ドームでの阪神タイガースとのオープン戦前の打撃練習参加中に打球が宮田さんの右側頭部を直撃してしまいました。
その為、外傷性くも膜下出血を発症してしまい、その後遺症として記憶障害を起こしてしまいました。
その記憶障害の中には宮田正直さんの大切な記憶もあったそうです。
宮田正直が記憶障害でなくした大切な記憶とは?
宮田正直さんが記憶障害でなくした大切な記憶というのは上宮高校の選抜での決勝戦のことと思われます。
その決勝は結構劇的な結果となっております。
あの夏の甲子園松山商業と熊本工の奇跡のバックホームとまではいきませんがドラマではありましたね。
それが宮田正直さんが2年生の時にエースとして上がった選抜の決勝のマウンド。
1-1で延長線までもつれ込み、上宮高校が表で1点とり勝ち越した状態で10回裏へ。
で、簡単に2アウトを取るとこまではよかったんですがここから甲子園でのドラマが始まりましたね。
野球は2アウトからという格言があるように、四球・安打・適時打・味方守備のエラーで2点を取られて負けてしまいました。
あと一人というところで意識しすぎてしまったんじゃないかなと思います。
1点で抑えればよかったんですが、エラーが痛かったですね。。。
ただ、この劇的な試合の記憶を宮田正直さんは頭部に打球を当ててしまったことによって忘れてしまったそうです。
もしかすると写真みたいに絵みたいな断片はあるのかもしれませんが、記憶ということではなくなってしまったそうです。
これ以外にもなくした大切なエピソードがあるようです。
宮田正直が記憶障害で無くした甲子園の決勝以外のエピソードは?
宮田正直さんが記憶障害でなくしたのは甲子園の決勝以外にもあるそうです。
それが小中高といった修学旅行の行先だったり、上宮高校の過ごしたチームメイトの元木さんや種田さんと一緒に過ごした日々などなくしてしまったそうです。
ただ、あの決勝でのある場面を思い出していたそうです。
それがサヨナラ負けをして泣いたわけではなく、サヨナラ負けをする前から宮田正直さんは泣いていたそうです。
宮田は意外なことを言い出した。「あとで思い出したんですけど、ぼく、あの決勝の最後の場面で泣いてたんです。ここで泣いたらいかんとわかってても、涙を止められませんでした」と。
ボーイズリーグ時代から強気の投球で鳴らした宮田が、あの決勝のマウンドだけは自分を見失ったという。「あとひとりで優勝できるんやと思ったら、苦しい練習のこととか、つらい思いをしたこととか、それまでせき止めてたものが一気に胸にこみ上げてきて、どうしようもなくなってしまった」と振り返る宮田の表情が、10代のころのようにはにかんでいる。
引用:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48548?page=4
その為、今までの投球が出来なかったんですね。
だからこそ四球・安打・適時打に繋がっていったようです。
もしかするとこのあたりが宮田正直さんがプロで活躍出来なった原因かもしれませんね。。。
元木もよく覚えているという。彼はあの延長十回裏、何度もマウンドに歩み寄っては「まだ泣くのは早いぞ」「もっと腕を振れ」と励まし続けた。そんな檄も虚しく逆転サヨナラ負けした試合後、彼らは報道陣の取材にマウンド上でのやり取りを明かさなかった。だから、当時の新聞には、宮田も元木も勝負が決したあとで泣き出した、と書いてある。
種田は「あのとき、ぼくはグラウンドから監督にサインを送ってたんです。投手を代えてくれって」と言った。「宮田で優勝したいというみんなの気持ちはわかったけど、打たれて負けたら何にもならないんだから」と。
引用:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48548?page=4
ただ、ここの場面を思い出しただけでも大切な記憶を少し取り戻したのではないかと思います。
ちなみにこのことが本に書かれておりました。
|
という本で上記のことが紹介されておりました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
コメントを残す